マッチセンター
開幕まで 42 D 09 H
あの夜、ベルンではもう一週間、雨が降り続いていた。ジダンは10分で、自分の神壇から自分を引き下ろした——一つの決勝、一つの呪い、許されることのない一度の振り返り

あの夜、ベルンではもう一週間、雨が降り続いていた。ジダンは10分で、自分の神壇から自分を引き下ろした——一つの決勝、一つの呪い、許されることのない一度の振り返り

2006年7月9日、ベルリン。

· 読了 約4分

2006年7月9日、ベルリン。

オリンピアシュタディオンの外、芝生は一週間前からずっと濡れていた。その夏のドイツを覆った雷雨は季節はずれで、決勝前の三日間、雨は降りっぱなしだった。キックオフ前のベルリンの空は、高緯度でしか見られない金属質の灰色を帯びていた。

アルゼンチン人主審オラシオ・エリソンドがセンターサークルに立ち、両チームのキャプテンと握手を交わしていた。フランスのキャプテンはジネディーヌ・ジダン、34歳。結果のいかんを問わず、この決勝を最後に現役を引退すると公言していた。

3時間後、彼はその約束を果たすことになる。誰一人予想しなかった形で。


7分——パネンカ

7分、マルーダがマテラッツィの足にかかってペナルティエリア内で倒される。PK、フランス。

ジダンがスポットまで歩いていく。その先にいるのはジャンルイジ・ブッフォン——大会最優秀GK賞を獲ることになる守護神。彼のイタリアは、この大会を通して失点がわずか2、しかもうち1つはオウンゴール。

セーフティなのは、力強く、ゴール上隅を狙うこと。

彼はそうしなかった。

3歩下がり、助走をつけ、インパクトの直前、振り抜きを緩める。足のインステップで、ボールを軽くすくい上げた。

ボールは羽のように上がり、ゴールの上に放物線を描き、クロスバーの裏側をなめて、中に落ちた。

ブッフォンは下の左隅へダイブするつもりで、すでに芝の上だった。起き上がりながら首を振る——ジダンに対してでも、怒りでもなく、「このやり口は知ってる」と言いたげな表情で。

ワールドカップ決勝史上、最初のパネンカだった。

フランスの実況ブースで、ティエリー・ジラルディが後にフランスサッカー連盟の追悼映像に切り取られる一言を叫んだ——「C’est Zidane, bien sûr. C’est lui.」(「ジダンだ、当然。あいつだ。」)

34歳のジダンにとって、このパネンカはただのゴールではなかった。「俺はまだこのピッチで一番頭の切れる男だ」と、世界に宣言するパフォーマンスだった。

フランス 1-0。


19分——マテラッツィのヘディング

12分後、イタリアのCK。ピルロが蹴る。

マテラッツィがファーポストから切り込んできて、ヴィエラの上を越し、きれいにヘディングした。ボールはフランスのゴール左下隅に突き刺さった。

1-1。

大会2度目のイタリアの同点弾だった。マテラッツィは大会前、支持の高い選出ではなかった——2006年イタリア代表の中で、最も議論を呼んだ名前の一人。乱暴なプレーの前科があった。だがこの一瞬、彼はイタリアの、誰も想定していなかった救世主になった。

その90分後、同じ男が全く別の物語の主役になることを、まだ誰も知らなかった。


104分——ブッフォンの指先

延長戦。両チームとも決定機を作ったが、どちらも決められなかった。

104分、ジダンがFKのクロスに合わせ、ファーポストに飛び込んでヘディングした。

ボールは強く、重く、右下隅に沈み込んでいった。ブッフォンが横っ跳びし、指先だけで、クロスバーの上へかき出した。

あのリプレイは後に何度も何度も流された。ジダンは立ち上がり、ゴールラインを割っていくボールを見て、拍手もせず、悔しさも表さず、ただゆっくりと自陣へ歩いて戻った

ベルギーの作家ジャン=フィリップ・トゥーサンは、2006年に出版された随筆『ジダンのメランコリー』の中で、まさにこの瞬間を書いている。あの一瞬、ジダンは完璧な別れをやり遂げるための時間も、脚も、意志も、もう残っていないと気づいた——というのだ。

トゥーサンの一節、訳してみるとおおむねこうなる——「形式が彼を拒んでいた。自分の無力を受け入れられず、彼は自分の完璧な退場を壊すことを選んだ。」

これはあくまで後から書かれた文学的解釈だ。その時スタジアムにいた9万人は、そんなことは知らなかった。だが6分後、彼らは「完璧を壊す」の、その具体的な姿を目の当たりにすることになる。


110分——あの4秒

延長後半の10分が経過した。スコアはまだ1-1。誰もがPK戦の準備に入っていた。

フランスの攻撃が止められる。ボールはピッチの反対側へクリアされた。ジダンはゆっくりとハーフウェーラインの方へ戻っていく。

マテラッツィはその後ろ、5メートルほど離れて歩いていた。

二人は向き合う方向で歩いている。マテラッツィがジダンの横を通るとき、彼のシャツを引っ張った

その後に何を言ったのか——この20年で少なくとも5つの異なるバージョンが存在する。

ジダン、2006年9月、Canal+フランス: 「彼は私の母と姉を、非常に重い言葉で繰り返し侮辱した。」具体的な言葉は出さなかった。

マテラッツィ、2006年9月、ガゼッタ・デロ・スポルト: 「彼を侮辱したが、彼の母親を侮辱したわけではない。」具体的な言葉は出さなかった。

マテラッツィ、2007年8月(初めて公にされた具体的な表現): 「こう言った——“お前の姉、あのあばずれの方がいい”と。

マテラッツィ、スペインのAS紙、2020年(文脈を補足): 「実はジダンが先に仕掛けた。彼が『俺のシャツが欲しいなら試合の後にやる』と言ったから、俺はああいうことを言ったんだ。」

マテラッツィ、Vivo Azzurro(イタリアサッカー連盟の番組)、2026年3月(最新版): 「俺はシャツを引っ張った。彼は『試合が終わったらあげるよ』と言った。俺は『お前の姉さんの方がいい』と言った。それから彼が何か言って、俺も言い返した——『子供の頃、路地でサッカーやってた時に言い合ってたような、ああいう感じのやつだ』」

真実は、おそらく単一のバージョンには収束しない。

だがピッチで起きたことには異論がない。ジダンは二歩進み、立ち止まり、振り返り、額をマテラッツィの胸骨に叩き込んだ

マテラッツィは倒れた。


主審は25メートル離れていて、見ていなかった

エリソンドは2011年、英国の雑誌『The Blizzard』のインタビューで、その瞬間を詳しく語っている:

「俺は彼らから25から30メートルほど離れた場所にいた。マテラッツィが倒れるのを見た——足を引っかけられて転ぶあの転び方じゃない、殴られて倒れるあの転び方だ。俺は彼が起き上がるのを待った。起き上がらない。起き上がらない。起き上がらない。俺は試合を止めた。」

エリソンドは両副審にインカムで訊いた——「君たちは何を見た?」 二人とも「何も見ていない」と答えた。

そこで終わるはずだった——沈黙の間があり、試合を再開する。

その時、インカムに三つ目の声が入った。第四審判のルイス・メディナ・カンタレホだ: 「オラシオ、オラシオ、俺は見た。ジダンがマテラッツィの胸に、激しい頭突きを入れた。」

厳密に言えば、第四審判は映像リプレイに基づいて判定に関わることはできない——それが2006年のルールだった。カンタレホはスタジアムの大型ビジョンでスローモーションを見ていた(中継が偶然その瞬間をカットしていた)。

この一点は後にFIFAの内部調査を招くことになる。最終的な裁定は、カンタレホの情報源は合法的であった——彼は「ライブで観察していた」、たまたま大型ビジョンが視界に入っていたに過ぎないから。退場処分は維持された。

エリソンドはレッドカードに手を伸ばした。

ジダンは頭を下げ、選手通路に向かって歩いた。


通り過ぎた場所に、ワールドカップのトロフィーがあった

2006年ワールドカップ決勝の表彰台は、試合後にセンターサークル付近の地面から上がってくる仕組みだった。しかし延長戦の最中、トロフィー本体はすでに選手通路の脇、ガラスのディスプレイ台の上に置かれていた——表彰式のためにあらかじめ配置されていたのだ。

ジダンがピッチから退く動線は、ちょうどそのトロフィーの真横を通っていた。

この一瞬を切り取った写真は、2006年ワールドカップを象徴する一枚になった——ジダンが、頭を下げ、1メートルの距離でトロフィーの横を通りすぎる。彼はそれを一度も見ない。

FIFA公式カメラマンのジョルジュ・ラポルトは2016年、L’Équipeのインタビューで振り返っている—— 「あの瞬間、俺は三度シャッターを切った。何を撮っているのかわからなかった。だが、撮らなければならないことは分かっていた。」

この写真は後に、2007年のWorld Press Photoスポーツ部門で第2位を獲得することになる。


残された12分間

ジダンが去ったあと、フランスは10人対11人になった。

トレゼゲ、アンリ、マルーダはまだピッチにいた。しかしフランスのリズムは崩れていた——人数が一人足りないからではない、足りないのがジダンだったからだ

試合は1-1のまま終わり、PK戦に入った。

  • ピルロ → 決める
  • ヴィエラ → 決める
  • マテラッツィ → 決める
  • トレゼゲ → クロスバー裏にあたって外へ
  • デロッシ → 決める
  • アビダル → 決める
  • デル・ピエロ → 決める
  • サニョル → 決める
  • ファビオ・グロッソ → 決めた!

イタリア5-3、歴史上4度目のワールドカップ優勝。マテラッツィ——ジダンに頭突きされた男——もイタリアのPK戦で成功させた一人だった

フランス代表は銀メダルを携えてロッカールームに戻った。フランス代表DFミカエル・シルベストルが後にtalkSPORTで振り返っている:

「ジダンはもうロッカールームにいた。シャワーも浴び終わっていた。彼は全員に謝っていた。何のために謝っているのか、俺は分からなかった。ミックスゾーンに入って、テレビでリプレイを見て、初めて分かった。俺はそこに立ち尽くして、言えたのはただ『wow, wow, wow, OK』だけだった。」


数時間後——ジダンは大会MVPに選ばれた

ジダンが退場させられてから数時間後、FIFAは公式に、彼を大会MVPに相当するゴールデンボール賞の受賞者として発表した

これはサッカー史上、最初で唯一の事例だ——ワールドカップ決勝で退場となった選手、しかもそのレッドカードが敗戦の一因となった選手が、大会全体の最優秀選手に選ばれた。

FIFAとAIPS(国際スポーツ記者協会、ジャーナリスト投票を運営する団体)は決勝1試合だけでなく、大会全体のパフォーマンスを基準に票を投じた。その基準なら、スペイン戦(R16)で決勝点を決め、ブラジル戦(準々決勝)で試合を支配し、ポルトガル戦(準決勝)でPKを沈めたジダンは——この賞を受け取る十分な理由があった

しかしこの賞は、永遠の論争を背負ったまま、退場させられたばかりの34歳の男に贈られることになった。

フランス政府はその夜、短い声明を発表した。当時のジャック・シラク大統領はジダンを**「心と信念の男(un homme de cœur et de conviction)」**と評した。2006年7月11日の世論調査では、フランス人の61%が「既に彼を許した」と答え、52%が「彼の行動を理解する」と答えている


18年後、マテラッツィは今も話し続ける

2024年、マテラッツィはイタリアのポッドキャストでこう語った:「俺は今でもあの夢を見る。夢の中では、ジダンが振り返らない。二人とも無事に歩いて立ち去る。」

ジダンはマテラッツィと握手を交わしたことが一度もない。

2010年、フランスのラジオ局RTLでジダンは言った:「俺はマテラッツィに謝るくらいなら、死んだほうがましだ。」 同じインタビューの数分後、彼はこう付け加えた——「だが、あのままピッチに残ってフランスの優勝を助けていたら——俺は一生自分を許せなかっただろう。」

この二つの台詞を並べて読むと、不思議な対称が浮かび上がる。彼はあの頭突きを後悔していないし、それによってワールドカップを落としたことも後悔していない。彼は誰よりもはっきり分かっているようだ——もしあの瞬間を見逃していたら、自分は別の形で自分を失っていた、と。


2026年夏

2026年1月のフランスサッカー連盟の公式発表によれば、ジダンは2026年ワールドカップ後、正式にフランス代表監督に就任する。ディディエ・デシャンの後任としてだ。

つまり——この夏、彼はフランス代表の全試合の観客席に、次のフランス代表監督として姿を現すことになる。ムバッペ、カマヴィンガ、デンベレのプレーを見る。長男エンゾ・ジダンはすでに引退。次男ルカはセビージャのGKを務めている。三男テオはつい先日24歳になった。

彼はもう、誰の胸にも額を打ち付けたりしない。

だがベルリンでの2006年7月9日、あの10分間——104分のブッフォンの指先のセーブから、110分のあの4秒、そしてトロフィーの横を見もせずに通り過ぎる彼の姿まで——は、これからも毎回ワールドカップの前に繰り返し流され続ける。

4秒の激情で、一人の天才は、自分にできる唯一の別れを告げた。


出典:ウィキペディア「2006 FIFAワールドカップ決勝」;Goal.com「Why did Zidane headbutt Materazzi」;スポーツ・イラストレイテッド誌、ジョナサン・ウィルソンによる2016年記事「Zinedine Zidane’s World Cup final headbutt recalled, 10 years later」;『The Blizzard』第11号、オラシオ・エリソンドのインタビュー;ジャン=フィリップ・トゥーサン『ジダンのメランコリー(La Mélancolie de Zidane)』;Canal+フランスによるジダンのインタビュー、2006年9月;Football-italia.netによるマテラッツィのインタビュー、2026年3月;RTLフランスによるジダンのインタビュー、2009年;フランスサッカー連盟によるジダンの後任発表、2026年1月.

関連ニュース